昨日、登山帰りのスーパーでの買い物の時の話。
レジで順番を待っていた。
大卒ぐらいのお兄ちゃんがレジ打ちをやっていた。
自分の前の客は『一缶のアルコール飲料』だけの買い物だった。
『一缶のアルコール飲料』の客が、袋がいるのかいらないのかはっきりしない感じでいたのか、レジのお兄ちゃんは接客がうまくいかなくて少しいらっぽい感じになったのが見て取れた。
私の番になった。
お兄ちゃんは無言で買い物かごからレジを打ち始めた。
レジを打つといっても昔のレジのようにキーを打ち込むのじゃなくて、今はバーコードを読み取らせるだけなのですが習慣的に打つと言っちゃいます。
お兄ちゃんが無言でレジ打ちを始めたのは、先の客で自分が明らかに自分の接客ができなくて不快に思ったまま気持ちを切り替えられなかったからなのでしょう。
だからその不快感が私のところでも出て、無言でレジ打ちを始めたわけです。
「いらっしゃいませ、は?」
私はお兄ちゃんに向かってそう言った。
お兄ちゃんは「いらっしゃいませ」小さめな声で言った。
そのお兄ちゃんの声には無表情そうでいて、多少の面白くなさげな感情がも載せられていた。
このように態度や声に簡単に自分の感情を出すのは、人間が練れていないというより心が一部純真純朴でないのです。人としてすでに一部が曲がったあて木のようなものです。これは年齢は関係ありません。
あて木の「あて」とは曲がった木などから板をとってもその部分の繊維細胞が異なるので曲がって狂いが生じることがあるので、建築木材としては注意するべき事柄なのです。「あて」のままでは歪んでしまいます。
※逆にあて木から作られ点景に用いられたりする場合の意匠材もあります。
どんなことがあっても、例えこころに「あて」があっても、大人でも子供でも、この程度のことで感情を声に載せないことができる人がたくさんいます。
その方法は、素直に「失礼しました」と明るく言うだけです。
感情を声に載せないで感情豊かに喋れる人の言葉は、言葉自体がはっきりしている。だから声もいい。
無表情な声は無表情という感情が載っているので、他人に対してとっても失礼な声である。
スーパーであまり教育が行き届いていないというより仕事慣れし過ぎて、こんな感情のない感情を載せた声のレジ打ちが多くなってきている。
こんな細かいことは普段は気にしないのだけど、一缶のアルコール飲料の客への態度が何か社会に出て間もないガキのくせに失礼な感じがしていたので、自分の時に無言でレジ打ちを始めたのでつい「いらっしゃいませ、は?」と言ってしまった。
なにも滅私奉公で愛想振りまいて接客しろとは言わない。
普通に話して、相手に不快感を与えないように声を整えるのが、まずはの接客業ではないのかな。
声に安っぽく自分の感情を入れるは女子と小人とは養い難しで、この「女子」とは今の時代対象としては失礼だろうけど、山登りでもすれ違いに挨拶をしても返事も返さないで不快な風にすれ違うおばさんが少なからずいるのも確か。
こんなあて木なおばさんは何を求めてハイキング登山に来ているのだろうか。どこであれ、不快になりたいのなら、クマの出る山でも行けば他の人とは会わないのに。
いずれにしてもレジ打ちの君は、「いらっしゃいませ、は?」と強要した私のことを嫌な客だろうと思っているだろうけど、すれ違うだけの相手に対して君の接客態度が私に「いらっしゃいませ、は?」と言わしめているのだよ。
人は見ているのだよ。
※私はレジで無言で金を払って無言で釣りをもらって無言で出てくることは、例外を除いてしたことはない。いつも「ありがとう」と言って出る。
See you.