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夜の散歩という名の徘徊


夜の散歩という名の徘徊

ここ二ヶ月ぐらいブログることに夢中になってしまっていた。いやもう六月も中旬に入ってしまっているし、二ヶ月ぐらいじゃ なくて三四ヶ月になるのかもしれない。

 

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健康維持管理のためにと低山ハイキングをしているのだけど、最近はパソコンの前に向かって何かをしていることが多くなって低山ハイキングがおろそかになってしまった。

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パソコンばかりやっていては運動不足はまぬかれないので、夕方になってから散歩になるべく出るようにしている。

 

昼間の散歩もいいのだけど、昼間の散歩だとハイキングっぽいことの方がやりたくなってしまうので、日が落ちるころからの散歩は回りが闇の中というほどではないけどなんとなくファジーになっているから、気が散ることなく散歩に集中できて良いのだ。

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夕方から夜にかけての散歩は、意識してやらなければできることじゃない。

 

だから散歩という名の徘徊とは言っているものの、そこに自我のない徘徊とは意味が違う。

 

目的があるから本来は徘徊とは言えないけど、まあ、あっちのスナックこっちのカラオケ居酒屋などのドアを開けたり、ドンキーで『柿の種・梅しそ』や『柿の種・ CoCo壱番屋』を買ったり、あるいは『カップヌードル・蘭州牛肉麺』などを求めたりとふらふらしながらのショッピングといえば聞こえも良かろうけど、散歩という目的はあるけど散歩自体はあてなく彷徨っているので一種の徘徊ってことにしている。

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こんなことをしていると、やがては散歩に出るという目的も脊椎反応のごとくに組み込まれてしまい、薄暗くなるとそわそわしてふらふら外に出て当てもなくそれこそ彷徨うになればそれはそれで本当の徘徊ってやつだ。

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そうなればそれでその徘徊は楽しいのだろうか、それとも刷り込まれて原始的本能となった脊椎反応による衝動であてもなく何かを求めて彷徨い、その何かが分からない不安に襲わての徘徊となってしまうのだろうか。

 

前者なら分からないので良いけど、後者であれば少々辛いなあ。

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呆けることで何が辛いかというと、呆けること自体はかまわないみたいなのだ。だってもう分らないんだからプラナリアと同じに脊椎反応的なもので生きて動いているだけなんだから生理現象的なことしか反応はない。

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ウンチをこねくり回していたってウンチが汚いって思っているのは社会性でそのように教え込まれているからに過ぎないから、その社会性の枠が呆けによって消えてしまえばウンチなんて汚くもなんともない。

 

犬だって糞食するし、豚だって人のウンチを食べさせて育てているなんてのも東南アジアにはあるという。その場合はトイレの下が豚小屋ってなっている。

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だいたい赤ちゃんには汚いとか臭いって感覚がないらしい。

 

いや、オムツが汚れたりとかは嫌がるけど、ウンチやおしっこが汚いとか臭いとか、おならでさえ臭いって分からないらしい。

 

それは大人が臭いとかいうことで学習して覚えることらしいのだ。

 

だから、動物側として、ウンチが汚い臭いってことで本能的排除されているってわけじゃないのだ。

 

で、何が呆けることで辛いかは、まだら呆けだ。

 

時々人としての正気に戻る。

 

そんな時にウンチをこねくり回していたら、そりゃあつらいだろう。人と人との関係の中でもあるとき正気に戻るって、それは悲しくもつらいことになるだろう。だから呆けたら呆けたままでいたいと願うばかりである。

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もっと言えば、呆けないためにも徘徊という名の散歩に出るわけだ。

 

散歩は有酸素運動であり、散歩で前頭葉に刺激を与えることが出来る。

 

前頭葉は人間としての部分を司っているので人として生きる上で重要な部分である。呆けるってことは動物的脊椎反応で体がコントロールされること。

 

人として生きるってことは、前頭葉で動物的脊椎反応を抑え込み社会性を保つことでもある。

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夜の散歩という名の徘徊でフランスパンを買って帰ることもある。

 

あてもなく歩いているけど、人の歩く道なんてほぼ固定している。

 

少しは違う道を歩こうと一本道をズレたりして歩いても、結局は元のいつも歩く道に戻っていることが多い。

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駅前をやり過ごしてさらに歩いて行く。歩き始めは色々なことが頭の中に浮かんできて反芻動物のように頭の中でそれらを幾度となく繰り返し反芻しているが、歩き出して30分もするとあまり余計な考えも頭に浮かんでこなくなる。

 

歩くことの方が主で考えの方が従に入れ替わる。

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歩くことが主で考える方が従になると無心で歩ける時間帯になってくる。無心で歩ける時間帯になると、これはぼつぼつ帰る方向へ歩き出しているって感じになる。

 

帰るって目的で体が動いているから無心とは言えないのかもしれないけど、それでも頭の中は意外に何も考えていない状態になってきている。

 

この状態を名付ければ『ウォーキングハイ』とでも言えて、思考は休止しているけど歩き始めの緊張感は薄れて気分は高まってきているのだ。

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そんな気分の高まりは周りの景色が暗闇溶けあっていることにより、より集中してウォーキングハイ的な気分になれる。

 

この時間は散歩に出るという目的意識はすでに終えていて、その目的達成感で充足されている。

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散歩は折り返し時点で散歩という目的はすでに達成されたってことになるわけだ。

 

折り返し地点へ到達すれば後は否が応でも引き返すだけだから、散歩の目的は果たされたってことで満足感を得て心が解放されるのだ。

 

満足感から散歩の折り返しあたりで、ちょっと心が躍り出す。散歩しなきゃって拘束から逃れて、気分がハイになる。

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そしてカラオケが始まる。

 

より、楽しい、ひと時が、今宵もやって来るのだ。