やろうよYouTube 動画
2020年1月11日
もへじはただ今Y ouTube 動画に凝っています。
凝っているってのか、表現方法の新しいスタイルを見つけた感じがして面白い気がします。YouTube が Google の提供となったのはざっくり言うと2006年の終わりごろだけど、このころから YouTube で動画と考えて活動していた人は凄いと思う。
下手糞でもいいじゃない
しか YouTube で活躍するには、音楽とか映像の扱いが出来るか、自身の声で喋るか、自身が出演するかの選択になるので、多くの人には敷居が高かったと思う。
なにを隠そう喋りがヘタな…隠す必要もなくなってしまうほどヘタなのがアップロードした動画でもうバレちゃったし、滑舌も悪いのも知られてしまったけど、それでも一度そこを越えてしまうと、ダメはダメなりにヘタレも何とかなるものである。
お金をいただく番組じゃないし、誰からも観られようが観られなかろうが問題になるようなもんじゃないから、自分が続ける意思があればいつでも動画をアップロードすることが出来る。
TVと違ってあるとき脚光を浴びてその後にあの人は今どこに?なんてことも自分がそれを望んでやっていなければ、いや望むというより心折れて動画を中断しない限りは、動画を作り続け投稿出来るサービスが YouTube なのだ。
これって、ありがたいやね。
挫折とチャレンジ
折れるとは自分で飽きちゃうとか、能力のなさに嫌気がさしてしまうかのどちらかだけど、その原因は観てくれる方が少ないってこと以外にはないだろう。
こればっかりは頑張っても無理なので、せいぜいツイッターなどで撮影した動画ツイートをすることぐらいしかないだろう。
それも頻繁にやり過ぎれば無視されてしまうし、フォローされていた方もフォローを外されてしまうだろう。
同じようなツイートばかりしているツイッターは当然嫌われる。
とは言え嫌われようがどうしようが、それは自分の勝手なので永遠に続けたってなにも悪い事じゃない。
ただフォローを外されるだけだ。
フォローとか読者講読って、フォロー返しや読者講読返しが欲しくてするもんじゃ絶対にない。
そんなことをしたら自分で自分の首を絞めるようなものだ。
ツイッターに良いねしたり一言添えたり、良いねボタンに、ブックマークにブコメの檀家巡りして来たらそれだけで時間を消費されてしまうからだ。
そういったことが好きだと言うのならそれは、それはもちろん多いに良しです。
自分の動画やブログが面白いと思うのは、楽屋落ちじゃないけどその裏まで知っているのが自分自身なわけで、それらに接する方にはその楽屋落ち的なことまでは何も分からないので、結局は動画や記事で表現された内容の何割かしか理解されることはない。
しかも相手も檀家巡りで疲れ果てているなんてこともあるかもしれないから、適当に記事を斜め読みしてブコメしてあったりすると、絶対に記事もろくに読まないで書き込んだなってのは、悲しいかな、ありありと見えてくる。だから無理しなくて止めてくれて良いよ。
喋らない人間が喋る
YouTube の動画をもへじが作る理由の一つは、人との雑談なら何とかなるけど、一人喋りの動画って難しいので、その難しさを乗り越えて話は上手にならなくてもいいけど喋りがもう少し上手になったら良いなあって思ってやっている。
それには喋るしかない。
喋って恥をかくのが一番だと思う。
外国旅行で現地で和製英語で問いかけて、イングリッシュ・プリーズって言われて恥ずかしさはなかったね(笑)
その恥ずかしさを今、 YouTube 動画でやっている。
で、恥ずかしいってのも、結局は他人に恥ずかしいわけでもなんでもなくて、自分の内なる思いなだけだ。
自分の内なる恥ずかしさが消えれば、ただ『喋りは下手だね』っていう客観的な事実が残るだけだ。
動画も下手だけど、動画こういった生撮り風の撮影方法もないわけじゃないので、それはおいて、あとは下手な喋りをなんとかするよう努力するのが良いのだ。
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自分の動画を観て聴いていればその酷さに思わず閉じるボタンを押したくなるけど、なにを飾ることがあろうかそれが自分の今の実力なんだから、恥じないまでも実力以上に頭で思っていても盛り(飾る)つけようもない事実だ。
こんなのも良い記録となるだろうと思う。
YouTube ならひょっとしたら100年後にももへじの動画がインターネットかあるいはそれに類するネットワークの海を漂っているなんてことも可能かもしれない。
そんなことを考えて、ネットワークの中にゴミと言われようと、そんなものを残すしかこの世に未練を残す方法はないだろう。
ネットワークの中の命
断捨離だのミニマリストだの言っていても、その言葉が恥ずかしくなるほどに遺留品は身内か業者がきれいさっぱり処分してくれるし、よしんばいくつか残されたとしてもこんな家族間の薄い時代では、二代も時が経ては自身などこの世のどこにも居なかったも同然となるはずである。
そんないないと同様の無の故人が、インターネット的ネットワークの中で文章としてブログや動画としてその息吹を残せて行けるなら、インタネット的ネットワークこそが合同葬としての墓標にもなると思うのだ。
どうだ、インタネットこそが永代墓標となる可能性があるのだよ。
このことの意味が、分ったかい?
今は、まだ若く親と一緒にいる人もいるだろう。
ぼつぼつ親の介護って人もいるだろう。
それ以前にもへじのように身内も少なく一人ぼっちになっている人は、若きも老いも関係なく増えてきているだろう。
そんなぼっちがこの世から消えて行けばそれこそ焼けた灰殻は、一陣の風共に吹き飛ばされ、この世に存在していたことさえもきれいさっぱりと否定してくれるだろう。
このようにして、この世に何の足跡も残さず消え行くのもそれで良しである。
墓でさえ檀家もいなくなれば、その墓はいずれ潰されて合同葬に埋葬されて、墓も消えてゆくものなんだ。
身内だとて二代三代と経てば、身内の心からも消えゆき、そして忘れら去られた時に完全死を迎えざるを得なくなる。
これから先は墓さえもどんどん消えていく時代に、インターネットというネットワークの中には何らかの足跡を残せる時代ではあるのだ。
誰による術もなくても、インタネットの中に自分の墓標的足跡を、数百年数千年と残しておける可能性もあるのだ。
そしてその足跡を観た誰かの中に、その足跡の一足ぐらい遺せる可能性だってなくはないのだ。
そうなれば誰かの中で自身は生き継ぐことさえできるのだ。
そんな壮大な思いを、今のインターネットでは可能ではないかと思わせてくれる。
自分の記録のために
だからというほど大げさに考えなくてもとりあえず自分の記念のために、両親が子供の頃に八ミリカメラで記念日の動画を撮影してくれたことがあるだろうと同じように、自分で自分の動画を YouTube にアップするのも良いのじゃないでしょうか。
自身の YouTube 動画とのかかわり方は自身で考え工夫することが大事だと思いますが、今はスマホがあるので案ずるより産むがやすしです。
近くの公園を散歩して少し言葉を入れる。
それだけでも記念動画が出来上がります。
さあ、やろうよ YouTube 動画!
これらの動画を観れば、 YouTube 動画の敷居もうんと低くなるのじゃないでしょうか。
はい、これらは、この程度で良いのならばと、あなたの YouTube 動画を作ってみようかなって思うきっかけになるのじゃないでしょうか。
もへじの使っている自撮り棒
欲しいなあと思っている自撮り棒というよりスマホ撮影用
もへじの程度の低い YouTube 動画を観れば、誰しもがこんなんで良いのなら私ならもっと面白いものが作れると、そんな気持ちになってくれていたら良いなあって思います。
自己アピールが強い方は自身をビデオのモチーフとしてセルフィー動画にして YouTube にアップロードするもよしだ。
動画への敷居が本当に低いんだってことを、もへじの YouTube 動画が知らしめた功績は少しはあるんじゃないかな。
まもなく通信は5Gになる。
そうなればスマホ持っている人すべてが放送局になる。
なにも動画を全世界に公開しなくても、知り合い身内だけのグループでの放送局となる時代が来るのだ。
5Gで世界が変わるよ!
近いうちに、ど素人的 YouTuber 動画の記事を作成したいと思っています。
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