アボカドの種を植える男
2020年6月1日
マルチェはドアノブに手をかけくるりと回して部屋に入ろうとした。
その時、なにか普段とは違うなにかを感じた。
マルチェ 部屋に音もなくそっと入り、ドアを音も立てずに後ろ手で閉めるとそのまま右手の壁に背を向けながら横歩きしている。
顔をゆっくりと動かしつつ、その視線は何かを探すように部屋の中の主だったところに刺さっていった。
窓が開いて風が入ってきている。
消えかかりそうな西日が部屋の中の陰影をより深くし、影になる部分はより黒い影となってなにやら吸い込まれそうな暗部の趣を見せる。
登場人物
マルチェ・ロコンティ…一人暮らしで40代ぐらいの痩身な男
ベラノゴッチ・チャイキン…マルチェの仮の育て親にあたりかつ仕事のあっせん者
モニカ・マーガレット…マルチェの部屋の反対側の住人
第2話…シャトン
異変はないようだな。
そう感じた。
が、窓からまだ冷えていない心地よい風が入ってくる。
そうか、今日は窓を開けて外出した
そうマルチェは思った。
風の入ってくる窓に目を向けると窓だけが暖色な明るさに包まれて、より薄暗く感じるようなダークな室内から、現実逃避のごとくに異次元空間へ逃れる入り口のごとくに空間に浮かんているかのようだ。
そんなことをすれば六階から真っ逆さまに地上へダイブしてしまうのは自明だが、不意に窓枠に足をかけ、黄昏色の中へと足を一歩踏み出してみたい衝動が生じる。
「風で吹き飛ばされて窓から落ちたのか…」
マルチェはそう思った。
現実逃避を誘(いざな)うがごときの黄昏(たそがれ)への入り口の桟に芽を出したばかりの、アボカドの鉢植えのシルエットが見えない。
アボカドのシルエットが見えないことが、マルチェにとっては部屋の中に入ったときに感じたざわつく違和感だった。
自分の知らないいつもと違う雰囲気を感じ取るとマルチェは自然と気持ちがざわつく。そんなときマルチェは、本能的に身構えるが如く繊細な用心深さが生まれる。
ややあって、マルチェは左手で入り口側の照明スイッチの電源を入れた。
部屋がパッと明る
西日が当たって暗黒のように暗く感じた窓の下にアボカドの鉢植えは落ちていた。アボカドの鉢植えはてっきり窓の外に落ちたのかと思っていたのに、室内に落ちていた。
窓に向かって足を運ぶマルチェ。
窓の桟に置いていたアボカドの鉢植えは、ラスチックの鉢植えだから軽いの
それに植えてある用土はミズゴケだからより軽いのだ。
室内で栽培しているのだから、不潔に成らないようにと土じゃなくミズゴケのほうが清潔だろうと、ミズゴケをアボカドの種を植えたのだった。
ミズゴケは冷涼な環境の湿地に生育する植物で、乾燥させたものはカトレアなどの植物の植え込みに使われるという。それでマルチェは、ミズゴケなら清潔だろうとミズゴケをアボカドの種を植えたのだった。
それに鉢が倒れても土が溢れる心配もない。
マルチェは落ちているアボカドの鉢植えを手にとって、少し浮き気味になっていたミズゴケを指で鉢底に向けて押し込んでやった。
マルチェはアボカドに水を与え、それからアボカドの鉢植えを小皿に乗せて窓の桟に戻した。
戻したアボカドを見てまた大きくなっているのが分かる。
まさに日に日に大きくなるのが分かるほど成長が早い。
昨日より今日、今日より明日…
マルチェはぼつぼつ大きな鉢に植え替えてやらねばと思った。
今度は鉢がひっくり返らないように土で植えて、重心を低く保つようにしてやるつもりだ。
鉢も陶器かなにか、少し洒落た鉢を買ってこようと思った。
次の日。
マルチェが散歩から帰ってくるとまた体の中がざわついた。
昨日感じた違和感よりよりも心が落ちつかずに、ざわつきがさざ波のように体の中に広がっていく。
窓の桟のアボカドはのアボカドの位置が少しずれている。
また風が入ってきたのだろうか。
アボカドには散歩に出る前にたっぷり水をやってあるから、アボカドの鉢植えの重心はとりあえず低いところにあるから、五月の風で飛ばされることはないと思っていた。
風で飛ばされてこそはないが、マルチェが窓辺の桟に置いた位置よりも明らかにずれている。
風だとしたら本当にアボカドの鉢しっかりしたものに変えてやらなければならないとマルチェは思ったが、心のざわつきはそんなところにはなかった。
いる!
なにかが、潜んでいる。
マルチェが鉢植えを元に戻そうと窓辺に近づくと「にい~」という音がした。
マルチェは一瞬で理解した。
が、なぜだ。
窓は開けてあったとはいえ、ここは六階だ。
普通じゃあ登っては来れないだろう。
またしても不安気で訴えるように「にい~」という音がした。
音のした位置はマルチェのベッドの下からだった。
マルチェはベッドの傍に行き腰を下ろし、右片膝をついて上体をかがめて頭を横にしてベッドの下を覗き込んだ。
ベッドの下の暗闇に艶のある黄色い丸い目が、瞳孔を開いて体を膨らませ軽く口を開けて今度は低くしゃー言うような呼吸音ともつかない音を出し、威嚇するには可愛らしすぎるがそれでも尖った小さいが犬歯を見せている。
大きさからして子猫のようだった。
捨てられたのだろう。
マルチェは捕まえようと腕をベッドの下に押し込み手を伸ばすが、手の届かない奥に後ずさりしてしまう。
後退りする子猫の脚は白かった。
これ以上は無理だとマルチェはしばらく放置することにした。
それにしてもここは六階だ。
窓が開いていたからとはいえ、どうやってろっかいまであがってきたのだろうかとマルチェは、窓から頭を出して窓の壁を改めて確認するように見た。
なるほど壁の外の階毎に装飾のために少し出している感じの梁の部分を伝わって上へ上へとの壁をのごってきたのか。
子猫なら体重が軽いから登れなくはないな。
ニュースであまりにも高いところに子猫が登っていって、やがて降りられなくなってミャアミャア鳴いているいるところをレスキューの出動で救い出されるニュースは何度か観て知っている。
アボカドのために開けた窓から何度か俺の部屋に訪問していたのは良いが、今度ばかりは俺の帰ってくる時間とかち合って帰れなくなったんだろうか。
壁のどこ伝って登ってきたのかと、マルコは窓辺から外を探るように見た。窓辺の階ごとに狭いながら桟があり、そこを伝いに登ってきたのだろうと思った。
子猫なら登ってこようと思えば乗れるだけのスペースがはあるみたいだ。そんなところを登って六階までやってきたのだろうけど、俺の部屋のなにが目的なのかなとマルチェは思った。
食べるものだってないのにとマルチェは訝(いぶか)しんだが、俺が考えても猫の気持ちがわかるわけもない。
「さて、どうするか」と思ったが、子猫が大きくなればそのうち他のことに興味が移るだろうと放置することにした。なぜなら窓辺に置いたアボカドの鉢植えのアボカドは開け放った窓辺でしっかりと成長をしている。
だが、とりあえずはベッドの下の子猫だ。
また「にい~」と声がした。
再度マルコは ベッドの下の子猫の捕まえようと手を伸ばすと、子猫がシャーという声を出して猫パンチを食らわせてきた。
こんな小さな子猫だけど猫の爪は小さいがマルチェの指先を捉えた。
チクリした痛さに思わず腕を引っ込めたマルチェは、ベッドの縁に肘を少し強くぶつけてしまった、子猫に食らった猫パンチよりもベッドの縁にぶつけた肘のほうが痛かった。
子猫がまたまた「にい~」細い声で鳴く。
お腹が空いてるのだろう。
生憎と 俺の部屋にはワインとフランスパンとチーズしかない。
そのフ
お腹が空いていたのだろう、猫はパンとチーズの匂いにつられてベッ
咀嚼するおりに首を上げ俺の方を見て、あっ、見てしまったなんて顔をして皿に視線を戻して食べたものを飲み込んでいる。
「くはっ」
子猫は急いで食べたせいか変な声を出したので、マルコは 水を汲んでさっきまでパンが残っていた皿に入れてやろうとしたら、猫は首だけベッドの下に後ずさりした。
パンとチーズを食べ、水を飲んでお腹がいっぱいになったのか、子猫はま
それからややあって子猫が出てきた。
今度はベッドを隠れ蓑代わりにしないで出てきた。
「おっ」とマルチェは思った。
生意気な感じなプライドの高いあるき方をする子猫だった。
いや実に珍妙な歩き方をしている。
前足を真っ直ぐに前に出してから下ろす感じで歩いてくる。儀礼式のときの馬がゆっくりと前足を出してカツカツと歩くような感じで歩く。
その姿には猫のしなやかさが感じられずぎごちない。
しかも子猫の脚は白いソックスを履いたかのごとくに膝下半分が白い。まさに靴下を履いた子猫と言える。
早くに親猫から離されて、歩き方もなにか別の動物の歩き方を見て真似したのかもしれない。
目も見えないときから親猫と離れたのだろう。
親猫は交通事故にでもあったのか…
いずれにしても俺と同じだなと、マルチェは思った。
子猫はベッドの下から出てきてマルチェの座っている椅子のそばに寄ってきた。そしてマルチェの足元に自らの体を押しつけこすりつけるように何度か動いていた 。
そしてマルコ見てニャーと鳴いた。
マルチェはその可愛らしさに思わず手を伸ばし子猫の喉をさすってやった。
猫は嬉しそうに喉を鳴らした。
それを何度か繰り返し、子猫は安心したようにまたベッドの下に潜
今夜はここで過ごすつもりのようだなとマルチェは思った。
しかしこの子猫を一体どうしたものかマルチェにはさっぱりわからなかっ
次の日。
マルチェはベッドの横にパンとチーズと水を置いて窓を開けてから出かけた。
窓の下には子猫が窓の桟に登りやすいように、段ボールの箱を置いてやった。
子猫はこの段ボールの上に乗って 窓の桟にたやすく登り、来た道を戻って帰ることができるだろうそう思ったの
子猫が出て行くことを望んではいたが、その気持とは裏腹に子猫がいなくなることがなんとなく寂しくもあるマルチェではあったが、しかし子猫を飼うつもりはない。
マルチェは特に仕事がなければ読書や散歩で日がな一日を過ごす。
マルチェの 背中の小さなショルダーリュックには、水代わりのワインとフランスパンとチーズ入っている。
今日は随分遠くまで歩いてきてしまった。
お城のようなテーマランドの遊園地も見え、その向こうには 海の近が見える。ここから帰るとかなり遅い時間になってしまうだろうなと思ったが、マルチェは歩いて帰る。
こんなのはもう散歩ともいえず放浪者に近い。
そうだ、俺は放浪者だ。
俺の居場所はこの世のどこにもありはしない。
求めるはなにかも分からず、あてもなく漂い放浪しているに過ぎない。
いつだって、どこにだって、俺の居場所なんぞ有りはしないのだ。
そんな寂寥感が帰路の途中右手方向から傾きかけた太陽の光がマルチェを包む。
傾きかけた陽の光がマルチェの顔に深い陰影を落とす。
短髪。
細めの眉に奥深い眼窩高。
鼻筋は通っていて方が良い先細りである。
唇は薄めでだが口自体は小さくはない。
顎はやや先細り気味。
マルチェは今の仕事を始めてから家で、なにをするでもなく壁の窓を見て何時間でもボーッとしていることも多かった。
やがて窓を見つめてボーッとしていることに耐えられなくなると、マルチェは歩き始めた。
歩き始めると目的もなくただどこまでも歩いていってしまっていた。
ときには来た道順さえわからなくなっていることもあった。
何度か電車やタクシーを使ってアパートに帰り着いたこともある。
そんなことを繰り返しているうちに、仕事がないときは少しばかりの食べ物を持って散歩に出ることを覚えた。
ときには図書館で本を読んで過ごすこともある。
自分の仕事は特殊な仕事だ。
真っ当な者のやることではでは多分なかった。
仕事はそう多くはない。
マルチェの仕事が多い時代はもう過ぎてしまった。
マルチェがこの仕事についたのは世の中が不安定で荒れていた時代であった。
浮浪者同然だったマルチェをベラノゴッチ・チャイキンがマルチェを見出し、仕事を教えてくれた。
ベラのゴッチはマルチェが一人で仕事をこなせるようになると、自分は引退してレストランを開業しオーナーシェフとなっていた。
そこそこに人気があるレストランとして町に店の名前も浸透し、知る人ぞ知る感じになリ店の経営は順調である。
美味しいものを食わせる店は称賛されべき文化であることから、店のオーナーでもありシェフでもあるベラゴノッチ・チャイキンは、今では多少の名声さえ手に入れていた。
荒れた時代があって、その時に多くの仕事をしてたくさん稼いだマルチェは、仕事の報酬の殆どをベラゴノッチに預けてある。
そのベラゴノッチが冗談で言ったのだろうと思うが、「お前はアボカド農園でもやってみてはどうだ」との言葉が耳に残っていた。
そんなことを考えながら家の玄関に立つと、部屋の中に子猫がいたことなどすっかり忘れていたのに、部屋の中から「にい~」と鳴き声がする。
「出ていかなかったのか」マルチェはそう思った。
それにしても玄関まで来て鳴くのは多分お腹が空いたんだろう。
マルチェがドアノブに手をかけドアを開けると子猫は飛び出してきた。マルチェは子猫が窓から戻れなくなって別の出口を見つけ出て行くのだと思った。
子猫が飛び出してさるのかと思ったけどマルチェの足元にまとわりつ
マルチェが部屋に入ろうとドアを少し大きく開けると、子猫は自分が先とばかりに前足を交互にぴっぴと先に突き出すようにして歩いて部屋の中に入ってしまった。
締め出しというか、追い出されないためにそうしたのかなと考えて、頭の良い子猫だなとか思った。
部屋の中でも子猫はマルチェの足にじゃれついて、どうやらご飯をくれと催促しているようなので、マルチェはお部屋の中
猫は牛乳をペロペロと舐めて満足したようにマルチェをちらっと見て、それからパンとチーズを齧りだした。
マルチェはその様子を見て、なんだかホッとしたような気がしたけれど
そのうち子猫は
マルコは風呂に入ってベッドで横になった。
いつしかマルチェは奇妙な
女と二人で平凡な生活をしていた。
女はとびっきりの美人というわけではないが、マルチェの腕に抱きついて体をくっつけて歩き嬉しそうな顔をして時々マルチェを見上げる。
マルチェは男に腕を絡めて歩く女の夢を見て、腕を絡められたのは俺だったのだろうかと夢の中で思っていた。
朝になってマルチェは目が覚めると、なんだかお腹の周りになにかがのっているような気がした。
夢
「軽いんだな」
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