チコちゃんに叱られないブログ

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大腸内視鏡検査完了

大腸内視鏡検査は無事完了しました。

 

無事と言っていいのかな、一つ大きなポリープというのがあった。

 

ひもで結束して切り取ってくれました。

 

モニタがベッド横にあって見られるようになっていて、ひもを輪にしてポリープにかぶせている程度までは所々で見ていたと思うけど、どうもあまり覚えていない。

 

それはなぜかというと、大腸内視鏡検査のために点滴で麻酔薬を落としていたので、いつの間にかうとうととしていたことのほうが多かったようでよく覚えていない。

 

内視鏡検査が終わって先生が、じゃあ検査に回しておきますねなんて言っていたので、良性か悪性かを調べるのだろう。良性であればよいけど悪性だとがんということだ

 

生検で悪性でなければよいのですが、悪性だったらその時は腹をくくります。

 

悪性なら悪性でもいいし、自分にとってはふた親の歳はおろか、兄姉二人の歳も超えて生きているので、生きた期間に対しては十分満足しています。

 

ふた親とも短命だったので、自分も早く死ぬんだろうなあなんて漠然と思っていました。けれども先に兄が、その数年後に姉が無くなるのはまるで想定外でした。

 

母親は私が3歳ぐらいのころに、父親は小学生半ばで亡くなっています。そんなこんなで我兄弟姉妹はなんとなく短命じゃないかという意識が頭の隅にあった感じで、親の亡くなった年齢を考えて残りの余命を数えたりしたこともあります。

 

そんなことで長生きはしないんだろうなあと漠然と思っていましたけど、まさか先に兄、数年後に姉が逝くとは夢にも思っていませんでした。

 

これは実際にすごくショックでした。

 

兄に続いて姉までいなくなるなんて身内の少ない私にとっては、一時とてつもない寂寥感に包まれてしまったものです。

 

ただ私は根が楽天なのか時薬が聞いてきたのか、今はあの時ほどの切なる寂寥感は薄れてくれました。でも、一抹の諸行無常的寂寥感だけはいまだ完全に消え去ることはありません。少ない家族のその家族がいなくなるなんて寂しいものです。

 

寂しさに耐えて一人生きるのがだれにとってもの人生なのだ』ですから、それは耐えられなくはないことです。

 

耐えられないと、精神不安定になって、やがては体調を崩したりし自律神経失調症なんてことになる方もいらっしゃるみたいです。

 

先に言ったようにその点で自分は楽的です。

 

どうにかなるさ

 

ならなきゃ人生それで終わり

 

生きていりゃもっといろいろな人生があったかもしれないなんて、それはそこまで生きてきた人の話で、自分だって今でそこまで生きてきているのだから、そこまでで十分にいろいろな人生だってったってことなんだ。

 

いくら人生100年時代とはいえ、男が自立型で100歳を生きれるのはごくまれな人なので、その中に自分が入ったらいいなあとは思うけど、それは無理だろうなあってことも何となく分かっていることだ。それにそれこそそんなことは、そこまで生きてみなきゃ分からないことだわ。

 

そんなことで父親の年齢を超えて、兄の年齢を大幅に超えて生きている私としては、今生きているだけでもそれは大儲けなんだ。このことは十分に宝くじにでも当たったと同等の価値があると思っている。

 

それだからこそ、いい年こいて、髪の毛を脱色して金髪にしてみたりして人にちょっとおやって思われようが、そんなことを気にしないで自分のできる範囲のやりたいことをやってみているってわけなんだ。

 

低山遊びも気が向けば週に何度も行くし、旅行だって高価な旅行はできないが、なんとかなりそうな費用程度の旅行も可能な限り行くようにしている。

 

そんな風にある程度生き方を割り切っているから、もしもの時の意の決し方はある程度腹をくくっている。

 

とはいえ生きている限りは前向きに倒れたいので、少しでも健康でいられるように注意と努力はしている。

 

また細かいことだけど、男が脳疾患系の病で倒れると多くは右半身が不自由になりやすいので、左手で橋を持つ連取をしたり、何か作業するときも右手の役割を左手に置き換えてみたりといった小さな抗いはしている。

 

そんなだからもし大腸がんの可能性があって、ポリープのあったところあたりを切除するなんて話が出れば、話の内容によっては手術しないなんて選択肢も視野に入れています。

 

そうなってしまった場合に、余命が決まればそれは心穏やかではないしあがきますが、余命が決まればそれまでのスパンで行動計画も立てられますので、残りの時間を有意義に動ける気もします。

 

だからポリープが悪性でも手術はしないかもしれません。

 

その場合は、大した財産はないけど子供はいないので、小さな不動産と少額の蓄えなどの財産はどこかの育英会(例としてあしなが育英会など)的なところに寄付しようと思っています。

 

少ない身内ですが、身内に私が持っている程度の財産を欲しがる者もいませんし、自分の財産は自分の遺言で自由に処分できるので、寄付するのが今のところ一番かなと思います。

 

でもこれはいざってなったらどうなるか分かりません。うろたえて、対がん対処の費用で使い果たしちゃうかもしれませんしね・・・

 

死へ至る過程はさておき、自分としては常々自分の亡くなった後のことなどはどうでもいいって思っていました。なぜなら死んでこの世に未練が残るわけじゃなし、死んだ身でこの世の誰かに何かしてやる、なんて映画物語みたいなことはあり得ません。

 

もし、そんなことがあるなら、先に亡くなっている先祖なんて35代に遡ったら17,179,869,184人が必要だったんだ。(それらの先祖がいたから今の自分があることには衷心から感謝しています。その方たちが私の血と肉を作ってくれたわけですから)

 

かといって先祖霊が現世で私に何かしてくれるなんてことは、それは物語や映画だけでのお話で実際にあり得ることじゃありません。どうしてかというと私の先祖は千年遡れば今の地球の総人口を超えるだけの命を繋いで生きてきているのです。これは私たった一人でですよ。

 

試算してみると、2017年の地球総人口が75.3億人と言われているから、171.8億人では軽く今の地球の総人口の倍以上のスコアになっちゃっている。(それでも昔は寿命が短かったら1代を30年程度の寿命とすると、35代目まではたったの約千年間だ)

 

1人の子供に対して父母で2人、その父母に対して父母父母でそれだけで4人だ、この4人に対してそれぞれに父母がいたとするからそこで8人になるという単純計算だ。実際には近親婚や世代婚などもあったろうけど自分の遺伝子がこれだけの人の手から渡ってきたことには何ら間違いないのだ。

 

そこなあなたどこの馬の骨かもわからないなんて言われて、今生きているだけで地球が生まれた時からの歴史をあなたが背負って生きているのです。受け継いだ命はあっても昨日今日作られた命なんて何もないんです。

 

私ひとりに171.8億人の命ってことは地球総人口それぞれの命も換算したら、もし霊魂や先祖例がその辺にいるとすればこの地球上には霊魂だらけで、右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても、息を吸っても吐いても、その辺のいる無量数(不可説不可説転)の霊魂たちで溢れているってことになるのだ。

 

まして人が動物に生まれ変わるだの、あるいは人に生まれ変わるだのとの言われたりするのだから、その数たるや「不可説不可説転(=10の37218383881977644441306597687849648128乗)ほどの霊魂が地球上にはいることになる。

 

こんなにめちゃくちゃな数量の霊がいるなら、何も霊魂の出る場所なんて井かなくってもこの空間に無数陵いるはずだ。そら、息を吸っているときは言うに及ばず、水を飲むときご飯を食べるときにもこれらの霊魂が体に取り込まれて、そしてうんちとなって出て行っているかもしれんのだ。

 

霊があるなら、この世は怖ろしき霊だらけの世界なのだ。

 

霊魂があるとしたら、自分の後ろに先祖霊171.8億人分もいるのに、今生きているおいらにこの霊たちは直接的何の影響も与えることができない。都合の良い極ささやかな神頼みの一つも聞いちゃくれないんだ。つまりな現生に何の影響も与えないってことは無に等しいのだ。いや等しいじゃなくて無なんだろうと思う。

 

先祖の霊が現世の自分に影響を与えられるとするなら、先祖霊を精神で認めて敬うことによって、初めて自分の心の中に一本の信念が生まれるという精神的な意味合いから受ける諸々のことだろう。それは自ずと心の中で手を合わせるに等しい行為だ。

 

心の中で自ずと手を合わせる行為が具現化し、それが集合体となればそれはもう宗教となって別の意味での影響が大きくなってくるのでそこまでは話は広げないことにする。いやそこまで話を広げる能力はない。

 

そんなわけで自分が死んだ後のことはどうでもいいのだ。路上で細切れになってさらされていたって、自分はそんなことを見ることもないし感じることもない野でお好きにしてくださいなのだ。そんなのを見て悲しむのは、見た人が哀れに思って切なくなって悲しいだけなんだ。

 

もし自分が死んだら病院から焼き場直送無縁墓合同納骨でいいのだ。

 

自分にとって死は、この地球が無くなることと等しいことなのだ。もう意識することができないのだから、実際に地球はあっても自分には無でしかない。いや、地球があったって自分には無というより、それを無と思う思念ももう無いってことなんだ。

 

この世に自分のものは何一つ残したくない。記憶物は全部処分してもらいます。わずかな財産は、これからの子供の教育にの一助に、少しでも役に立つならそれが幸せだと思ってるのです。知識を増やすってこと、これほど楽しことはないんだよ。

 

そんなわけで自分には神様も仏様も見つけることが出来なかったので、死んだら無であるとの考えしかない。神秘的なことはお話では好きだが現実にそれはない。

 

そりゃあ地球上に今70億の人間がいるんだもの、突飛もない偶然の神秘的なことが誰かのみに起きることもあるってのも分かるけど、それは神秘的って考えることじゃなくて、自分がこの世に生まれ出たのと同じで奇跡というやつに過ぎないのだ。

 

そして奇跡は起きればそれは必然の当たり前になる。

 

とまあ、大腸内視鏡検査一つでこんなことを考えてしまいましたのです。

 

実際はその場に流されるかもしれないけど、一応一度は腹はくくっておくことも大事だろう。

 

 

まあ、なるようになるさ、ケセラセラだぜwww