「ねえ、アイリッシュコーヒーを作って下さらない」
「アイリッシュ…コーヒーですか?」おうむ返しにそういった若い学生アルバイト店員は、続けて「少し…お待ちください」と言って受付カウンターを離れた。
アルバイト店員は責任者らしき男性に声をかけ、小声で客の要望を伝えると店長らしき男性から的確な指示が出たようだ。
「申し訳ございませんが、アイリッシュコーヒーの提供はご用意がございません」目が少し充血気味であるが澄んだきれいな瞳に、申し訳なさそうな憂いを含ませてアルバイト店員はそう答えた。
アルバイト店員の背はおよそ170cmちょっとあろうかと思われ、スレンダーな体つきにスターバックスの制服が似合っている。
小顔で長い髪は後ろで結わえ、溢れるほどの清潔感を漂わせていたた。
その娘は、ここのスターバックスでも美人でスタイルがよくて接客も良いと評判のアルバイトでもあった。だが睡眠不足なのかいつも目が充血気味でもあった。
「アイリッシュコーヒーの提供がない…」と言われた客は、目に申し訳なさそうな表情を浮かべたアルバイト店員のその目を見て、それ以上のことを要求することはできなかった。
「そうなのね、最近は昔の純喫茶が町から消えて久しくてね。いいわ、じゃあ似ているこれ、これを下さらない」そう言ってエスプレッソ コンパナを指さした。
老女はそう告げてエスプレッソ コンパナを受け取り、通路がよく見える正面席に腰を下ろした。朝のこの時間ではまだ席には余裕がある。
それからその椅子は毎朝6時台は老女の指定席となった。
少し賑やかに自動ドアが開いた気がした。
目を上げると、小柄な女がペールブルーのスカートの裾を自動ドアに挟まれ、腰を前後に揺らして引き抜いていた。
左手にビジネスバックと右手に掲載新聞を持って、それ故に手でスカートの裾も引くことできないのか、それとも直截的なのかまあ多分両方なのだろうがあわただしい。
いつもこの時間帯にこんな風にやって来る女だ。
年のころなら40近いのだろうか、それとも小柄だから若く見えるが40は過ぎているのかもしれない。
小柄な女はカウンターに行くといつものアルバイト店員に微笑んでトレイを受け取って席に腰を下ろす。新聞を折り曲げて広げつつエスプレッソを熱げに口に持って行き、わずかに啜った。
「ふっ~」と、安堵とも嘆息ともとれぬ音がハートの形のような唇から漏れる。唇には薄い紅が引いてあるだけであるが、白い肌がその美しき口元の形をより引き立てていた。
小柄な女は耳元にあてていたスマホをビジネスバックの中に無造作に入れ込むと、食べ残っていたわずかばかりの塊のマフィンを口に押し込み、エスプレッソを飲み干して流し込んだ。
それから新聞をたたみトレイを持ってカウンターに行き、アルバイト店員に軽く会釈をしてからスカートを揺らせて自動ドアに向かって歩いて行く。
自動ドアが開いて小柄な女が店を出て行く。
その背中には、これから仕事なのか、少し気合を入れるような雰囲気も漂わせている感じだった。
◇◇◇◇◇
老女はいつもの席に座った。
席からカウンターの方を向き店員と目が合って、首を少し傾ければエスプレッソ コンパナをテーブル迄持ってきてくれる。
いつしかそうなったのだ。
店としては老女に対するサービスでもあった。
いつもの指定席も老女の為に必ず空けておいてくれる。
スターバックスのようなマニュアル化された営業店ではこういたことは異例のサービスである。
マニュアル化されているとはいえ、そこは人の心としての配慮も当然あるのだ。
「お客様いつものでございます。中のコーヒーは熱いのでお気を付けください」と少し目が充血気味なアルバイト店員がお決まりの言葉を柔らかく伝える。
老女はお金を店員に渡す。
店員がお釣りの為にカウンターに戻ると、老女はバックからスノーピーク・チタン丸型スキットルを取り出しボトルから琥珀の液体をコーヒーに落とし入れた。アルコールを含んだ馥郁たる香りが流れてくる。
老女はその香りを嗅とともに香りを懐かしんだ。
スノーピーク・チタンスキットルは丸型で注ぎ口が細いので、どばっとウィスキー出てがこぼれる心配はなく緩やかに注げる。
老女はこのスターバックスに来るようになってから、ウィスキー携行ボトルにアイリッシュウィスキーを入れて持ち歩くようになっていた。
◇◇◇◇◇
自動ドアが開く。
老女は顔を上げる。
老女の顔に失望の色が見える。
老女は何度失望感を味わったのだろう。
10回、100回・・・
思えば中学1年生のときだった、あの人と出会ったのは。
小さな公園にブランコが二つ。
そのブランコの一つにあの人は乗っていた。
私はその隣のブランコをぶんぶん漕いだ。
あの人が大丈夫なの、って、顔で心配そうに見つめていた。
急な夕立で二人は築山の土管の中に逃げた。
雨で濡れて、顔も濡れて、もういいやと私は涙をぽろぽろと零した。
あの人は自分のハンカチを私に渡した。
雨で濡れていたハンカチに、私は思わず「ふふ、びしょ濡れ」と笑いながら言った。
それから20年後、私たちは巡り合い二人の生活が始まった。
愛に満ちた幸せな時だった。
あれから約半世紀・・・
店の外に目をやるとイチョウ並木が黄金色に色づいて、吹く風に葉を一枚二枚と持っていかれている。
朝の太陽の光が、風に飛ぶイチョウの落ち葉に時々キラリキラリと反射し、虹輪を発する。
「また、秋なのね」と老女は思う。
毎年巡る季節、何も変わらない日常、なのにあの人はいない。
このまま人生の終生を迎えるには忍びないと、あの人は老いに抗しきれずに再びジョバンニ号に飛び乗ったまま帰ってこない。
「あの店で待っててくれ」
「朝の6時30分がジョバンニ号が戻ってくる時間だ」
「明日までに、昔みたいに30代に戻る方法をジョバンニ号で見つけて戻ってくる。なにジョバンニ号の中なら何年経とうが時間は進まないんだ」
「店の正面席で…ぼくを待っててくれ」
「いいね」
そう言ってあの人はジョバンニ号に乗って消えた。
ジョバンニ号の搭乗者名簿にすらあの人の名前はもうなかった。
◇◇◇◇◇
「ほおずきれいこ様、いつもの帰るお時間でございます」スターバックスの店員が老女にそう声をかけた。
椅子の横に古切れが落ちていた。
良く見るとその古切れはハンカチのようだった。
椅子に掛けていたほおずきれいこに目をやると、ほおずきれいこの腕はだらんと重力に牽かれて落ち、店員があわてて垂れた落ちた腕に手を添えるも、ほおずきれいこの腕にはいかなる力も残っていなかった。
顔はと見ると口元に笑みを浮かべていた。
「きゃあ~~~~~~~~~~~~~~~~っ」
店の中があわただしく揺れ動いた・・・
完
◇◇◇◇◇
銀河鉄道の夜、ほおずきれいこさんの第6話・ミスターM氏帰還・後編で、『第7話に出てきたスタバの老女、じつは・・・とかね。』のあとがきに触発されて創作しました。
ごめん、ほおずきれいこさん作文で殺しちゃったかも (´▽`;;;)
お話としては老女なので、老衰でという設定で、天寿を全うしたことになります。なので幸せな結末に近いとお話にしました。
でも、行方不明の夫は何処にどこかで新しい女と浮気している。それがスターバックスにやって来た、両手にビジネスバッグと新聞を持ってスタバでエスプレッソを飲んでいた女の夫だったとかで輻輳する物語も出来そうです。
椅子で天命を全うしたかのほおずきれいこは、待つことで生きる力と希望を得ていたので、その意味では幸せだったので口元にはほほ笑みが出ていたのです。
あるいは完全に、別次元のエピソードと捉えるといいかなと思います。
CM