2021年6月26日
拝、灰、廃、獰猛です。
中高年の星☆爺婆の太陽 の静吉プレゼンツでございます😍
序
最初から閑話休題です😋
ぼくは国語が弱いので、今回のタイトル「エロくもないけどすっぽんぽんの奥様が出てきた夢のお話」 の最後の「話」が不自然に思うのです。
動詞の場合は「話し」となるけど、名詞である場合は「話(はなし)」となるのがセオリーらしいけど、送り仮名がないとぼくには「話」は「わ」にしか読めないのだ。
だけど動詞の場合は『これから話すね』というように、「話」に送り仮名「す」が必要だ。
『日本昔話』だと完全タイトルなので「日本昔話し」じゃこれは違和感いっぱいの間違いになる。『そういう話ですか』だと「そういう『わ』ですか」になっちゃうのでちゃんと「そういう話しですか」と送り仮名を付けなければいけない。
だから今回のタイトルの「エロくもないけどすっぽんぽんの奥様が出てきた夢のお話」 は名詞だから送り仮名話いらないってことになるので、そのことをちゃんと認識しておくしか無い。敢えてこのことを書いたことで、しっかりとこのことを覚えておくことが出来るのじゃないかと思う。
さて本題は2021年6月25日明け方に見た夢のお話です。
このお話を覚えている間にTwitterにツイートしてみました。
それでそのツイートを掲載してブログ記事を仕上げてみたいと思います。
おはようございマタンゴ😋
— 静吉®︎@へのへのもへじ😋 (@i_shizukichi) June 24, 2021
久しぶりに8時間以上寝ました。よく寝たので夢を見ました。よそのご夫婦と子供一人と私で、何か荷物を運ぶために車に乗ってるんですが、細かいことはいろいろ省くとと、その奥さんが結構大柄ですっぽんぽんになるんです。両手で大事なところを隠しながらなんですけども…続
すっぽんぽんの奥さんは車の座席に戻されるのを嫌がって、ドアと車の間の地面に駄々をこねるようにお尻を下ろして引っ張り上げられるのを防止しようとしていました。すっぽんぽんの奥さんの顔はあくまでも笑顔です。それでなんとか奥さんを後部座席に引き上げた旦那さんは運転席戻ります…続
— 静吉®︎@へのへのもへじ😋 (@i_shizukichi) June 24, 2021
車で荷物を運ぶために来たんだけどこんな状態でダンボール箱三つの荷物を乗せる場所がなくなってしまった。それで僕は三つの段ボール箱を左後部座席のドアを開けたまま車に乗せないでその横に置いた。その段ボール箱の後ろから手を当てて押さえながら車に乗って車を走らせてもらおうという算段だ…続
— 静吉®︎@へのへのもへじ😋 (@i_shizukichi) June 24, 2021
手を当てて、すっぽんぽんになってる奥さんの旦那さんに車を走らせてもらってダンボールを引きずり運ぼうということだ。物理的には可能であっても人の手で可能なことじゃないのだけど、そこは夢だからそれでも車を走って行く。そしてその車が上りの坂道に出た時に坂の頂上から…続
— 静吉®︎@へのへのもへじ😋 (@i_shizukichi) June 24, 2021
誤:事故現場にお前さんもやって来る。
正:事故現場におまわりさんもやって来る。
ビートルだったということが分かった。事故現場に散らかった車のドアや車体がやけに黄色かったからだ。こんな大きな事故なのに怪我人は誰もなし。この辺も夢だから仕方ない。一輪車の運転手が警察に対して事故の原因を必死に言い訳している。で夢はだいたいこの辺で終わってしまったんだけれど…続
— 静吉®︎@へのへのもへじ😋 (@i_shizukichi) June 24, 2021
ここからはタブレットではどうやってツイートを書いてよいかわからないのでPCツイートです。
— 静吉®︎@へのへのもへじ😋 (@i_shizukichi) June 24, 2021
思い当たることとはこのリプかな😋 pic.twitter.com/7mKb0IL1J5
破
せっかく書いたのでこのツイートをブログに貼り付けて一本の記事にしちゃおっと😋
— 静吉®︎@へのへのもへじ😋 (@i_shizukichi) June 25, 2021
ぼくのブログはこちらです。https://t.co/5RwvBUSf5s
あんな夢は ダレ のせい😋
— 静吉®︎@へのへのもへじ😋 (@i_shizukichi) June 25, 2021
— 大野由美 (@kurikurikunni11) June 25, 2021
フフフ💖
— 大野由美 (@kurikurikunni11) June 25, 2021
急
とまあ明け方に見た夢の顛末をツイートしたものを拾ってみました。
夢とは面白いもので、全くよくわからない物語と映像を見せてくれるので、ぼくは夢を見るのが大好きなのです。
夢見る深窓のお坊ちゃまがぼくの別名です\(∇ ̄メ)ウソコケ
黄色い昔の型のフォルクスワーゲンといい、ご夫婦と子供の三人。
どちらも実際は、ぼくのこれまでの人生でなんの関わりもない。
ビートルタイプのフォルクスワーゲンなんて、ぼくが車の免許を取得した頃はもう既にビートルタイプのワーゲンは製造すらされていなかったと思うし、ご夫婦その子供も全く知らない人たちだから、顔そのものがぼやけていてはっきりと認識できない。
夢は夢を見る人の様々な欲求の現れとか言われるが、それは当たらずとも遠からずのようなもので、生きるに置いて三大欲望は必要不可欠なのは間違いないから、そこに話を持って行けば繋がるところがないわけじゃない。
夢は性衝動の表れであるとかも言われるが、それならばなぜ実際の対象が夢に出てこないのかって思う。夢の中でもいろいろな要素が絡んで欲望を阻害するなんてことも当然に輻輳しているのだろうと思う。
それらを踏まえた上で私が考えた夢というのは、記憶の倉庫にしまわれたファイルが断片化して起きる現象だと思っている。
睡眠時は起きているときの何かと理屈っぽい思考から開放されて、ふわふわと浮遊してているかのように記憶の断片ファイルが混じり合って、その結果整合性を取りたくて物語のように見せるのが夢だと思っている。
夢は寝ている時の記憶の整理という説もあるので、夢の下手な精神分析よりもこちらのほうが正しいかもと思う。
人の脳の記憶領域は一生の間に目に入ったことや経験を全て溜め込んでおけるだけのものがあるのだ。
例えばぱっと後ろを振り返ってなにが見えたかは、普通の人には幾つも答えられないけど、写真記憶のある人にとってはなにが見えたかは微に入り細に入り答えることが出来るのだ。
写真記憶と同じに見たものは全て記憶のメモリにはあるのだけど、その記憶領域にちゃんとしたアクセスする能力が遺伝的に弱いか開花されていないために、凡人が後ろを振り返って見た時の記憶は数点に限られるだけだと思っている。
だけど見たものは記録領域の中に全てメモリーされている。
映画で見たとか通りすがりでちらっと見たとかTVやツイッターで見たとかは何でも良いが、いちいち意識して見てないので記憶していると感覚はないから、睡眠という自我を開放する中から上がってくる記憶の断片を見ても自分にとって初めて見る人だったり場所だったりしていると思うわけだけど、それは自分がどこで見たかを覚えていないだけというのがぼくの推測だ。
ぼくがカラーの夢を見るようになったのは、カラーテレビが普及して随分経ってからのある時、デパートの夏レイアウトで海水魚の水槽が飾ってあって、その中にブルーのコバルトスズメを見た時に、夢の中で色ついているって驚いたぐらいだもの。
ちゃんと夢の中でその事がわかったってことが大事。後で色がついていたかついてなかったかなんてことはたいてい覚えてはいないはず。
さらに数年前には夢の中での会話も音声で聞こえる。
夢の中の会話って意外と念話的なもので理解しているけど、ときどきちゃんと相手が喋っている声を聞けることもあるようになってきてる。これもその夢で音が聞こえるんだと驚いたものです。
ぼくの夢の見方自体も、経年で進化しているとも言えなくはないのだ🤣
文章校正完了😅
この記事は 中高年の星☆爺婆の太陽 静吉がお届けしました😎
聴けよ静吉っつあんのオリジナル歌謡(自動再生だよ)
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