じじいの婚活・恋活・愛活
2019年9月21日
じじいの婚活みたいなことはやっていると言えばやっているし、やってないと言えばやってないに近いのだけど、今のところ婚活にも恋活も愛活にもに全く縁はない。
こんな時に唯一縋れるのは、内なる内面暴発書きまくりの破天荒な加藤はいねのブログを無性に読みたくなる。
その記事が処女航海は今日も荒波!順風満帆。
それにしても、こんな素晴らしいブログを書きつづっていたはいねは、一体どこへ行ってしまったのか?
彼女は24歳からブログを書き始めたそうである。
彼女の一番古い記事は2001年の9月5日。
記事は『自転車泥棒』で、本当に寸セッチャ(窃盗自転車=セッチャ)をして、しかも2mほどの自転車を1m幅に縮めて戻すという悪行を働いている。
その間の出来事ははいねのブログでご覧あれだ。
つづいてその翌日6日には、その続編でもある『地雷パンツ』を記している。
そんな加藤はいねは2005年に最多記事45本を書き、その後年を追うごとに記事本数は少なくなり2008年からは年に数本の記事を書くに止まるようになっている。
そして2017年2月13日、上に貼ったブログカードの記事を最後に17年間の活動を中断している。
そんな加藤はいねにはもう一本サブブログ的なものがある。
加藤はいねは恋人が欲しいとか結婚したいとか以前に、生まれてこの方ブログの中で36年間ずっときよしこの夜だったことを切々と訴えているわけなんですよ。
加藤はいねのブログ記事本数は少ないけど、それでも全部読んでいるどころじゃなくてこの記事に貼り付けたブログカードの記事とどれか数本読んだ程度なんだけど、それだけで加藤はいねにわたしのハートは鷲掴みされている。
そしてその記事の中でのメインテーマは、加藤ハイネ自身の花園に誰も立ち入って来ないってことを切々に訴え書いているんだけど、どういうわけが誰それが好きとかって記事じゃないのだ。
ただ Fuck me. の夜の冒険者こと、ゴジラ男の出現のみを求めているのだ。
だから、考えられるのは本当にそういう思考形態の女か、あるいはこれらは計算されつくした妄想劇としてネタなのかという事なのである。
妄想劇ネタならば完璧すぎる出来だし、そうでないならば実体験がない実体験を冀求するという少々変わった Sexual impulse. を持っているのかもしれない。
いや、男どもは、女性の見繕ったゆえの異性を思う恋慕的思考(好き嫌い)ばかりを見せられていて、その内実は男と同じく下半身の激しい Direct sexual impulse. を持っていることを正直に女性代表としてブログっているのかもしれない。
女の脳はその機能面で行くと、右脳と左脳の連携が良いそうなので、芸術野である右脳処理により下半身の激しい Direct sexual impulse. を抑え込んで、表現的に恋愛から恋人を経て愛人へと入り込むステップを表明しているに過ぎないのかもしれない。
その点で男は左脳の活用が中心で、右脳の活用は乏しいそうである。
この脳の機能だけでいうと、男と女は同じ人間ではないとまでいう学者もいるとかいないとかだ。
そんな男の多くは、下半身の激しい抑えきれないほどの Direct sexual impulse. を持っている。
女医でもある【さくら先生の恋活日誌】ブログのさくら先生は、どちらかというと正直に Sexual impulse. を描いている。
さくら先生の方は現役でブログっているし、時には日に何本もブログって女としての心情を吐露している面で傾向は全く違うのだけど、加藤はいね的に通じる面があると思う。
【さくら先生の恋活日誌】のブログは削除なさったか止められたかは分かりませんが、該当ブログは消失していました。
男にとって理想のいい女を実践している感じのさくら先生のブログの閉鎖理由は分かりませんけど、徳永さんとボディランゲージシーンは強烈でしたからね。
それに徳永氏、どう見ても詐欺師にしか個人的には思えません。忙し過ぎる人間は眉唾なところがあります…全部がそうじゃ、な・い・け・ど・ね。
なんでじじいの婚活・恋活・愛活に他の方のブログを引き合いに出したかというと、多分どこかで書く方向性を間違ってしまったので、その結果として、自分にもなんでなのか分からないから引き合いに出したというのが正直今の状態です。
わたしのブログは指先タイプが綴っているだけで、頭でろくに考えもせずにタイピングしているところがあるので、頭に沸いたひょっとした思いですぐそっちに話を取られてしまったりするのだ。
頭でろくに考えもせずじゃなくて、考える能力も低いのだったわ。
そうそう、タイトルで思い出した。
宮本浩次の『冬の花』は、実にシニアにこそ向けた心模様の歌であるなあと実感する。
作詞作曲が宮本浩次自身であるのだが、冬の花の花の歌詞はTVドラマ後妻業に出てくるカモられる男の本質をよく表していると思う。
冬の花の詠唱が終わっての最後の台詞、『胸には涙顔には笑顔で今日もわたしは出かける』を胸に、出来れば家の中でずっとパソコンと遊んで籠っていたいのだが、それではなんだかいけないと誰かが囁くので、今日もわたしは出かけているのだ。
今日も、わたしは、出かける
今朝はこれが言いたかった…光と闇が交じり合わなくとも、渡れぬ川があろうとも、わたしは出かける。
…ただ、出かけるために出かける。
◇◇◇◇◇
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