チコちゃんに叱られないブログ

人生は旅なのです😋

赤貧洗うが如しも認識しなければ赤貧でもなんでもなく幸せ😎

2022年2月2日 

 

拝、灰、廃、獰猛どうもうです。

中高年の星☆爺婆の太陽 の静吉プレゼンツでございます😍

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はい、そんなわけで今回は貧乏時代だったのかなの子供時代を書いてみようと思う。

どんなわけで貧乏時代を書くのかってのはこんなツイートを拝見したからです。

 

 

ぼくが子供のころに物心ついたときには母親は既にこの世にいなかった。そうそれはぼくが3歳の時。

母はいないが、父と兄弟姉妹のぼくも入れての5人家族でした。

父、姉、兄、姉、ぼく、の順になります。

 

その兄弟姉妹も真ん中二人が年齢的には中年以降でも、ちと早逝しちゃったと思います。そのせいでぼくも短命なのかなと思っていましたけど😅

ぼくは末っ子なので兄弟姉妹3人によって育てられたというよりも、兄弟姉妹3人の恩恵によって育てられたみたいです。

 

父親ですがボクには優しかったけど他の兄弟姉妹には厳しかったようで、かなり厳格に躾られて育ったようです。

ぼくは未だに箸使いが下手で、兄弟姉妹で箸の使い方が下手なのはぼくだけです。

他の兄弟姉妹は親に箸使いなどしっかり仕込まれていたのです。

 

どれほど箸使いが下手かは、イカの刺身を箸で持つ時に滑り落ちないように箸を回転させて、手首がねじれた状態になるほどの下手さです。

それでも箸でイカがつまめればまだ良い方です🤣

 

ごくごく田舎なので店*1は歩いて1時間ぐらいのところに1軒しかありません。

だから必要品は食料品でもなんでも余分に買い込んでおく必要があります。

ある時に兄が父が子供のおやつのお菓子をしまい込んでいる場所を見つけて、内緒だからなと一つお菓子を兄弟姉妹に分けてくれました。

兄弟姉妹が学校に行っている間、一人で留守番風に過ごしていたぼくはそのお菓子を取り出してたくさん食べてしまいました。

かなり少なくなったお菓子を元のところに戻し、そして遊んだらいつしか寝ちゃっていたのです。

目が覚めて気がつくと夕方でした。

そして裸電球の下で、姉・兄・姉の3人が父親の前に正座させられて怒られていました。

 

その情景も記憶にあっただけで、あとからお菓子の件で怒られていたんだろうと想像しただけです。

目が覚めたばかりのぼくは、父の膝に座ってぼくが殆ど食べて残っていたお菓子をぼくだけに袋ごと与えて食べさせてくれました。

何事かわからないぼくは父の膝の上でお菓子を食べながら、父の前で正座させられている兄弟姉妹を見ましたけど、ぼくは誰とも目は合わせることが出来ませんでした。

 

そんな事があっても兄弟姉妹の誰からも怒られることもないのです。

その頃のぼくは少々知恵遅れ気味な風で愚鈍だったからなのか、なにをしても怒られることはなかったです。

はっきり言って子供時代に怒られた記憶が一つもありません。

 

そんな環境の家庭です。

そしてごくごく田舎でバスは砂利道の国道に日1本ぐらい通るか程度です。

周りは畑や田圃ばかりです。

少し歩くと山になります。

川もありました。

川でもよく遊びました。

ヤマハ兄弟姉妹が連れて行ってくれました。

 

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父に、姉・兄・姉・ぼくの子供四人の五人家族でした。

子供はそれぞれ間が3つずつ離れています。

 

父は元は事業をやっていて、お米が食べられるのはあそこの家ぐらい。

というほどに昔は羽振りがよかったそうです。

お手伝いさんなどもいて長女はそういった生活に慣れていたようです。

ですが、ぼくが産まれた頃には騙されたか何かで落ちぶれて、流れ着いた田舎に住み着いたのです。

 

もともとのお百姓ではないので田んぼも持っていないですが、田舎の事ゆえに空いていている土地を耕し、勝手に小さな畑を作って野菜などを育てていました。

 

当然それではお米は手に入らないし金もないので、父は季節労働者としてどこかに働きに出ていたようです。

子供だけを残して何ヶ月も帰ってこないそんな事もあったと覚えています。

 

帰ってこなくてもお金だけでも送ってくれれば良いのですが、もともと金遣いも荒い人だったようで、金を送ってくるどころか無しの礫です。

 

そんな状態でよく考えてみれば子供四人が生きてこれたものだと思うのですが、それが兄弟姉妹の3人のことは分かりませんが、ぼく自身は何の苦労もなしに生きてこれました。

 

水で薄めて炊いた水ばかりのような水粥に、味噌も無くなって醤油を入れて味をつけたおすましのような汁と、タクワンのしっぽみたいなお漬物の食事ばかりでいつもお腹を空かせていました。

 

それでも田舎の事ゆえ売店もなにもないし近くに家もほぼないし友達もいないから、他所の家庭を見たこともないので、自分の家が貧しいなんて思うこともなかったのです。それが極普通の日常なのです。

比べてどうのこうのじゃないのです。

 

遊びでタンパク質は川で小魚やドジョウを捕まえて帰る。

同じく遊びを兼ねて、猫じゃらしの茎にイナゴのエラ(?)の部分を通してイナゴ捕りをして帰る。

山栗拾い。

キノコ採り。

田んぼでタニシを捕まえてくるなんてこともやりました。

 

ある時にそれでも食べるものがいよいよ無くなって、兄と真ん中の姉とぼくで知り合いの家に米をもらいに一里ぐらいの山坂を昇って峠の知り合いを訪ねました。

たけれど、あいにく留守で誰もいません。

 

帰ってくるのを待っていたのですが、少し薄暗くなっても誰も帰ってこないので兄は意を決したように知り合いの家に入って勝手知ったる合いの家の米びつから、米三合を持ってきたのです。

 

これは完全に泥棒です。

 

その時僕らは誰もが確かにそう思いました。

そしてそのお米で、いつもよりさらに薄い水粥を炊いて夕食にしました。

 

ご飯を食べたあとで、暗くなっているのに兄は家を出てしばらく帰ってきませんでした。

昔は夜でも道ぐらいは月明かりや星あかりで見えるものでした。

それは照明で鈍化していない良い目だからです。

聞きはしませんでしたけど、兄は勝手にお米を三合持ってきてしまった家に事情を話に、つまり謝りに行ったんだと思います。

 

次の日の朝はちゃんとしたご飯が炊けていました。

兄弟四人はみんなニコニコして、白い歯ごたえを感じるご飯を食べました。

家の米びつを見るとお米がいっぱい入っていました。

そのお米を少し手にとって口に入れました。

生米をボリボリ食べるのも当時はたまにやったことがあります。

 

そんな生活の中で、出稼ぎに行った父がようよう帰ってきて安心したと思ったら、その父は病気で帰ってきたのです。

それでも生活が少し楽になった感じがしたので、多少のお金は持って帰ってきたのだろうと思います。

 

父は病気が回復すると農家の農作業の手伝いや、林業の仕事など色々と重宝されてそれなりの生活が出来ていて一番安定していた時代で、季節労働にも行かなくて良いようになりました。

 

お正月には新しいべべ(服)を毎年買ってもらってました。

そしてぼくも、その頃には小学校2年生になっていました。

ちょっと記憶があいまいですが9歳ぐらいだったと思います。

 

父が元気になって村での作業などの仕事をしている時に、父が脳こうそくで倒れてしまいました。

脳梗塞で父は右半身が不自由になりすこし怒りっぽっくなっていました。

それからはまた赤貧洗うが如しのど貧乏時代です。

いやいや、今までも赤貧を洗う余裕もないぐらいなど貧乏でした。

 

流石なこの状態を見かねて、村役場の民生委員の方がやってこられ生活保護の申請手続きをとってくれたと思います。

生活保護のお陰でこれまで以上に裕福な生活が出来ていたように思います。

年数も経って、父も半身不随ながら立って自由に動けるようになっていました。

当時ぼくは家が生活保護を受けていたというのはその頃分かっていませんでした。

 

今思えば全国で初めて学校給食にカレーライスが出ることになる日の前日。

 

担任の先生がお米を一合持ってくるようにと言われ、ぼくもお米を一合持って行ったら、おまえは持ってこなくても良かったんだよなんて言われたことを今更に思い出しました。

先生はぼくの家が生活保護を受けていたことを当然知っていたのでそう言ってくれたのだと思います。

まあ良いや入れなさいと先生に言われ、米袋に一合のお米を入れました。

その日の給食のカレーライスの美味しかったこと美味しかったこと。

これ以上美味しものはないのではないかというほどに美味しかったです。

 

それが1982年1月22日のことです。

 

その日は、以降カレーの日となったそうです。

 

1982年(昭和57年)、全国学校栄養士協議会が1月22日を「カレーの日」と決め、全国の小中学校で一斉に「カレー給食」を出す[43]。しかし既に献立が決まっていた学校が多く、実施率は2割に止まった[43]。当初は戦後に給食が復活した12月24日が検討されていたが土日、冬休みと被るため1か月ずらした1月24日を中心とした一週間を学校給食記念週間、22日を統一献立日にした[43]。カレーライスになったのは協議会の調査で全都道府県で一番人気で材料がどこでも入手でき、調理もしやすいためだった[43]。以後この日が、「カレーの日」とされている。…Wikipedia

 

とまあ、ざっとだけど、これが赤貧洗うが如しの生活そのものというやつです。

でも、馬鹿で愚鈍だからか一度も貧乏を意識したこともない。

 

いま振り返っても川は綺麗で汚染物質はどこにもなく、山川野には食べ物があって、なにを食べても安全な時代だった。

 

赤貧を意識する必要もない日常こそは、人が冀求する黄金の時代だったと改めて実感する。

今はデスク周りに20以上のコンセントがなければならないような生活をして、改めて当時を懐かしく思うばかりだ。

そう、歳をとったのです。

社会も世界も歳をとったのですよ。

 

 

文中のイラストはいらすとやさんのフリー素材です。

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この記事は 中高年の星☆爺婆の太陽 静吉がお届けしました😎 

 

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*1:田舎ゆえ食料品から農作業道具まで何でも売っている雑貨屋